代一元 そして とりとめもなく・・

一元と聞けば「あー、ラーメン屋さんね」と言う人は多い。
それもそのはず!創業昭和25年、東京ラーメンの草分けとして、京王線代田橋本店から暖簾分け展開をした「日本で初めてのラーメンチェーン」だそうだ。
私の生まれ育った町にも、その隣町にも「代一元」はあって、小さい頃、母に連れられてラーメンを食べに行くと、いつも賑やかで繁盛していたのを覚えている。
ひと頃は、京王線、小田急線、中央線などの沿線に、20店舗を越える「代一元」があったそうだが、小田急線の各店は人気があった下北沢店も含めて閉店したところが多いようだ。
私が小さい頃に母と行っていた成城学園前店も祖師谷大蔵店も閉店して久しいが、昨日はふと思い付いて自転車で10分ほどの千歳船橋店に行ってみた。何年か前にも入ったことはあるが、店内は変わっていなかった。
男性客がカウンターに一人、いくつか並ぶテーブルには誰もいなかった。
ビニールをかぶった小さめのテレビからはニュースが流れ、白衣を着た年配の女性と中年男性(親子だろうか?)がカウンターの中で働いている。
頭にタオルを巻いてTシャツというラーメン屋さんが増えた中、白衣に和帽子をかぶった姿も懐しいものだ。
ビールを飲みながらモヤシそばを待っていると、ぼんやりと昔のことが思い出される。
私が生まれる直前に、母が申し込んでいた都営住宅(←壊れそうな長屋)の払い下げ抽選に運良く当たったとか、いや、募集人員に満たなかったから申し込んでりゃ誰でも買えたんだとか、真偽の程は分からないが、いずれにしても高級住宅街と呼ばれる成城という町のはずれで私は生まれ育った。
私は「ALWAYS 三丁目の夕日」世代であり(正確にはあの映画の舞台の時には4歳くらいだが)、あの映画のような町や人情に郷愁を感じるし、私の育った近隣にも、昭和30年代前半はまだああいう雰囲気、生活感が残っていたように思う。とは言え、我が家のある町のはずれから駅のほうに向かえば様相は変わり、大きな家が増え、住んでいる人達の感じもガラリと違った。
戦後十年以上経っていても、まだまだ日本全体が総中流家庭という時代ではなく、一部のお金持ちと一般家庭との間には歴然とした格差が存在していたし(一般家庭ではテレビ・洗濯機・冷蔵庫の三種の神器を揃えるのも精一杯)、そういう意味では成城という町は当時から富裕層が多いところだったのだろう。
元々、我が両親は貧乏人なのに上記の理由で、たまたま住みついただけなので、息子である私も成人して離れるまで、どうにもシックリこない町だった。
カルチャーショックというか、貧富の差を子供ながらに痛感してしまったのは小学校に上がってからだった。
当時、お金持ちでも私立の小学校に通う子供は少なかったので、私の通った公立小学校には成城駅周辺のお金持ちの子女から、オヤツというものの存在というか習慣を知らなかった私のようなガキンチョまで見事に混在していた。
私はベビーブーマーというのには当たらないかもしれないが、それでも、一クラス50人以上、一学年6組くらいはあったので、生徒総計は1,500人以上いたのだろう。
その子供達の多くの家庭が戦後の急激な復興期に集まってきた様々な階級層だったわけだ。
入学してすぐに仲良くなった同級生の一人に村井君という体の大きな子がいてよく遊んだ。帰る方向も途中までは同じだったので一緒に帰ることも多かった。
小さな子供というのは、親の収入差や階層の違いを知らないし、遊ぶときはそんなことは関係ない。
私達もそうだった。
ただ、どうしたって「なんか、ちがう・・!」と気付かざるを得ない瞬間は来るわけで、ある日、村井君の家に遊びに行ったときが、それだった。
家の中が広いっ!てか、台所だけで俺んちみたいじゃないかっ!女中さんがいるっ!しかも、オヤツとかいってお菓子をくれるっ!プラモデルが山ほどあるっ!漫画本が山積みになっているっ!庭で缶蹴りができるっ!シャコと呼ばれる小部屋があるっ!
いやぁ、おどろきました。
その日、家に帰ってからも母に「どーしてっ?どーしてちがうのっ?」と迫るわけにもいかず、子供ながらにも、どう自分の気持ちを整理していいのやら分からなかったのを覚えている。
それからも同じような経験は続き(けっこう友達の家に上がり込むのが多かったためw)、いつの間にか、だんだんと驚きもしなくなっていった。ある同級生宅の居間に置いてあった熱帯魚水槽を生まれて初めて間近で見たときには、その美しさに魅せられ、心の底から羨ましいと思ったものだったが・・、まぁ、「世の中っていうのはこういうもんらしい」と悟りつつあったのかもしれない。
七つ違いの兄と何年か前に飲みながら話したときに、そういう話題になった。
兄はモロにベビーブーマーで競争世代なだけに、私などより強烈に、その「違い」を痛感していたようで、彼の場合はそれがモチベーションになっていったようだ。たしかに、兄の人生は、進学、就職、その後の起業から現在に至るまで、良くも悪くもチャレンジに満ちている。
私の場合はといえば、「まぁ、こんな自分でもこれはこれで良いよなぁ」的なモチベーションというよりマス●ーベーションに近い感じで、この歳まで来ちゃった感がある。まっ、これはこれで良いよな。(ほらね)
昔ながらのモヤシそばを頂いたあと、お勘定をしながら「私が小さい頃は、この辺も代一元さんが多くてオフクロに連れられてよく食べに行きましたよ」と話すと、中年のご主人は「そうですねぇ、昔は多かったですがねぇ・・やっぱり、どこも跡取りがいないとかでねぇ」と寂しげだった。
う~ん。
代一元のモヤシそば一杯から、半世紀にわたる時の移ろいにまで、とりとめもなく想いを馳せてしまった私なのであったジャンジャン♪
P.S.
小学校の同級生だった村井氏は子供の頃からとても好奇心の強い人だったが、日本のインターネットの父と呼ばれる偉大な研究者となられていている。