6月の思い出 ~ ご幼少の思い出

DJ.ワッキーのmixiアルバムをのぞいたら、6月のファンカタック金曜版の画像があった。
二ヶ月半しか経たないけど、まだ暑くなる前のことだったのもあって随分前のような気がして懐かしい。
この時は、私とDJドラの誕生月ということでガス風船をたくさん浮かして盛りあがり、最高に楽しかった~!

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さすが、ワッキー撮影!ブレまくってますw

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まさにこれから旅立たんとするフーセンおじさん aka.DJドラ


今度の9月17日のファンカタック金曜版は”2周年パーティー”ということで、またまた楽しい雰囲気で盛り上げたいと思ってます!ぜひ遊びに来て下さいませ!
やっぱり、楽しくなくっちゃFUN-Kじゃないよね~σ(>Д<)σ♪ は、犬や猫を飼ったのはそれぞれ一回ずつしかない。
しかも、犬の時はたぶん一週間くらいだったと思う。
こういうのは普通、飼ったとは言わないよな。
私が小学校の低学年・・今から50年も前のことである。
なのに、ビジュアルとして鮮明な記憶が残っている。
よほど嬉しく・・そして悲しかったにちがいない。
我が家は成城学園前という高級住宅街のハズレにある貧乏長屋だった。
落語に長屋って出てくるけど、まさに私の生家はそれで、アパートではなくてそれぞれが独立した所帯で所有権もあるのだが、木造平屋で横に長く繋がっているのだ。
一軒一軒の仕切りは壁一枚なので、子供のころ、押し入れに入って遊んでいると(←忍者部隊月光の基地だった)、押し入れの暗い空間の中で、柱と壁の間にできた亀裂から燐家の明かりが筋になって漏れてきていた。
私が小学校に上がるころにはガスや水道もきていたと思うが、その以前は長屋の前にある井戸から、毎朝、水を汲んできていたのだから、半世紀以上前とは言え、あらためて今昔に思いを馳せてしまう。
風呂も石炭で焚いていたのだが、この担当者がいつのまにか、家族の中で最年少の私になってしまい、学校を終えて夕方、古新聞から薪、薪から石炭へと焚きつけていきながらボンヤリ見つめていた炎の色も、頬に感じた熱さも、ありありと思い出すことができる。
そんなある晩・・7つ年上の兄が中学生、私はといえば小学校に上がったばかりの頃だった。
例によって酔っぱらった父が、なんと!コリーの子犬に引っ張られてヨタヨタと帰ってきたではないか!
「飼うの?この犬、飼うの?ねー!飼うの?」半狂乱になって聞く私と、母は違う意味で半狂乱だった。
母がもともと犬好きでなかったせいもあるが、当時の我が家に犬を飼う余裕などなかったのだ。
父が酔っぱらった勢いで(たぶん、知人におだてられたか、頼まれたか・・)買ってきてしまったコリーはまだ子犬ではあったが、当時、「名犬ラッシー」というテレビ番組が日本中で人々の感涙を絞っていたので、うちの母でさえもコリーが育つと「どういうふうな大きさになるか?」を知っていたのである。
取り憑かれたように、そのコリーの・・血統書が付いていてトニー号という名前が書いてあった・・細長い頭を撫でたり、背中をさすったりする私たち兄弟の前で、夫婦喧嘩の修羅場が繰り広げられたのは言うまでもない。
結局、父は自分の面子が潰れることを嫌がり、トニーを返しにいくことはしなかった。
我が家には小さいながらも物置小屋みたいなのがあったので、その晩からそこがトニーの部屋となり、同時に私の居場所にもなった。
通っていた小学校は成城学園駅の南側にあり、当時の我が家までは子供の足なら歩いて優に30分はかかるのだが、学校が終わるやいなや、ひたすら走って帰って、片時も離れずにそばにいたのを覚えている。
トニーを従えて、近所の芝生(昔はなぜか多かったよなぁ)まで行くと、当時はガキンチョが多かったのでゾロゾロと集まってきた。
その前で、私が得意気に口笛を吹いてみせると、トニーが走り寄ってくる。
どんなもんだい!とばかりに周りを見回すと、畏怖の念に満ちた目でガキンチョ達が私を見ている。
ところが、その中の一人が口笛を吹くと、トニーは主人である私を置き去りにして節操もなく、そのガキンチョのところへ走っていくではないかっっ!
「しょうちゃんっ、勝手に口笛吹かないでよ!」と言うよりも早く、他のガキンチョ達も芝生の上を走りながら、口笛を吹き始める。
嬉しそうに跳ねながら、ガキンチョ達の間を走り回るトニーを見ながら、半べその私は「や、やめろよなー、トニーはけっとうしょつきなんだぞー」と叫ぶのであった。
血統書というのがどういうものなのか・・その時の私も他のガキンチョ達も全くわかっていなかったのだが・・。
しかし、深刻な問題はすぐに表面化してきた。
母が仕方なく買ってきた肉をガツガツと飲み干すように食べてしまい、「ハイっ!次はなにをくれるのかなぁ?」というような顔をして私を見つめるトニーには、家の逼迫した財政状態を幼心にも知る私は「こ、これはまずい・・」「おまえ、ウチにいるなら食べ物もすこしは我慢しなきゃだめなんだよ」と必死に言い聞かすことしかできなかった。
夜、布団をかぶって寝ていると、ボソボソと話す父と母の声が聞こえてきて、眠りから覚めた。
険悪な雰囲気というよりは、母の声も諦めをにじませていたように思う。
「やっぱり無理だよ。餌代だって払えないよ。あの子達は夢中になってるけど・・」
「うるさいっ!じゃぁ、売ってしまえ!」
父の悔しそうなひと声で、私は全てが終わったことを悟った。
当時、東京畜犬という会社が近所にあって、後にこの会社は悪徳だかなんだかと騒動を起こして倒産をしたのだけど、その当時はテレビでもセントバーナードを使ったCMなどバンバン流していて超有名だった。
トニーは私が学校に行っている間にいなくなってしまったが、記憶では、この東京畜犬に引き取られたように覚えている。
夜中の両親の会話から、すぐにでもトニーがいなくなることはわかっていた。
翌日、学校から走って帰ってきて、もぬけの殻の物置小屋を見たときにも涙は出なかった。声も出なかった。
ただ、総天然色だった世界が一瞬にして白黒になったような、そんな気がした。
そのあと、風呂を焚きながら泣いた。