おやじのこと。

このブログもスタートした頃は日記的に書いていた。
自分の使っているレンタルサーバにMovable Typeをアップして書き始めたのが05年4月20日だった。
以来、ポッドキャストやビデオキャストをやってみたこともあるが、最近では、ネットラジオ「ファンラジ」や、時々開催するダンスイベント「FUNKRASH」の告知くらいになっていた。
久しぶりに私事になる。
5月27日に父が他界した。
母と離婚後30年ほど一人で福島県にいたが、若い頃から血圧が高く、数年前から目眩などに悩まされていたようだ。それでも、普段の生活には支障もなく、一昨年の11月に倒れた日も元気に自転車を漕いでいたという。
毎日、食事に行く懇意の店に、夕食、昼食と続けて来ないので不審に思った人が父の家に行き、倒れているのを発見して救急車を呼んでくれた。
俺が東京から兄が札幌から病院に駆けつけるまで、もたないだろうと言われていたのが医者も驚くほどの生命力で一命を取り留めた。
ただ、倒れてから発見までの時間が長かったので、強度の全身麻痺に加え、嚥下も出来ないため、食事は胃に直接..という完全な寝たきりの生活になった。
俺が東京から行くのは月に一回か二回が限度。会えるのもあと数回か・・そう思いながら、新幹線で郡山、そこから1時間に1本の在来線で磐梯熱海にある病院に通うのが、16ヶ月続いた。
俺が行くと、医師や看護婦さんには見せない反応をする。
涙を流すのだ。
父は「俺は好きなことやって、勝手気ままに生きてきたから、最後はポックリ逝かせてくれたらそれで良いんだ」が口癖だった。
それが、片手をちょっとだけ動かすのが限界。言葉は出せず、ものも食べられない。呼吸も思うように出来ないときもままある・・そういう状態が、1秒1秒、毎日毎日、延々と続く。
正直、死なせてやりたい。楽になってほしい。行く度に、苦しそうな顔を見るたびに、そう思った。
今月末に兄と一緒に病院に行く予定を直前にして、27日、自分たちのイベントを開催した。
父の病状を見て、「自分が生きていること」、「好きなことが出来ること」、「身体が動くこと」、「仲間がいること」、たくさんの有り難さ、たくさんの素晴らしさを改めて感じながら続けているイベントだ。
俺が十代の時、親父は新宿で麻雀をやって何日も帰らないことがよくあった。母とはギャンブルのことが原因でケンカが絶えなかった。
親父が通っていた雀荘のひとつが歌舞伎町にあったマンザ(萬座と書いたのだろうか)で、経営者がGetというディスコを東口のほうに出した。
そこに通っていた俺がGetのマッチを持っていたのがきっかけで、親父と「デスコ」のことを時々話した。
74年にディスコDJとして働き始めてからも、おまえ、まだデスコでやってるのか?と苦笑しながらも、自分の道楽人生もあり、それ以上のことは言えなかったようだ。
家族には、あまりイベントの話はしないが、親父の横に行ったときは、他に話すこともないせいもあり、独り言のようにその話もした。勿論返事があるわけもなく、理解しているのかも分からなかった。でも、おれは話した。
おれは仕事、なんとかなってるよ。子供二人は就職できたよ。ときどき、デスコを仲間とやってるよ。おやじ、この民謡のCD飽きたか?毎日、同じのかかってるからなぁ。次、来るとき違うの買ってくるよ。昔、親父が連れてってくれた祖師谷の焼鳥屋、あれまだあってね…
イベントの当日、出かける直前に磐梯熱海の病院から電話。
容態が変わってきているという内容。
もともと倒れてから何時どうなってもおかしくない状態だったが、今回は急変する可能性もあるので・・と伝えてくれた。
イベント終了直後に、父の他界を聞く。呼吸停止22時58分、心停止23時00分。
もしかしたら…どこかでそういう覚悟もあったが、イベントが23時までという事実との、あまりの符合を偶然とすることが出来ず、おやじ..のあとが言葉にならなかった。
生きてる間は、好きなこと、楽しいことは続けろ。
人生はそのために神様からもらってるんだから。
そのためには、がんばらなきゃいけないときもある。あきらめちゃだめだぞ。
おやじの声が聞こえる。
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 「父よ」   
僕が生まれる前なのか
三十歳くらいだったのだろうか
今の僕より遥かに若かった父よ
その目は何を見ていたんですか
               (2006-01-10 に書く)
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